熊野古道・1・高野山〜五百瀬 (いもせ)

「リ−ダ−、今回の坂本龍馬脱藩の道は素晴らしかった、来年も又、来ましょう」「イヤ、わしは熊野古道の小辺路が残ってる、あれを踏破したい、何としても、熊野古道が終わったら、我が山行を完結しても良いくらいだ、一緒に行こう」・昨年「脱藩の道」のリ−ダ−だった 田中さんとの会話だった、「熊野古道」??<何?それ・・それって、、?>考えた事も無かった、興味も、関心も一切無かった、しかし、「脱藩の道」で一緒に成った初対面のメンバ− その殆どが「行く」と成れば断る理由は無かった、

むしろ、この素晴らしいリ−ダ−と、素晴らしき仲間達との山行ならば熊野の古道だろうが新道だろうが私には関係無かった、約1年、何回か会合を重ね、周到な準備をして、5月11日8名の賑やかなパ−テイで 意気揚々と出発した、

スタ−トは高野山、半日高野山の観光をした、思わず足が止まったのは「石童丸、かるかや道心」縁の場所、史跡だった、見聞していただけに、実際の場所に立つと、色んな感慨が交錯し、改めて、この「悲話」を想い出した。翌朝、大滝口女人堂跡の「ろくろ峠」の高台より高野の峰峰を一望した、眼前に高野山のたたずまいが静寂の中に有った、かつて女人禁制だった頃、高野七道と呼ばれた登山口の全てに女性達を遮った「女人堂」、愛しい我が子、恋しい夫の姿を一目見たさに、やっとの想いで辿り着いた此の場所で、しかし、女達の切なく哀しい行為は背伸びし、首を長くし夢にまで見た「姿」を追い求めるだけだったと云う、命がけで訪ね来て、その「行為」を精一杯するだけっだったと云う、哀しい女達の姿が、この峠にして、誰が名付けたか、「ろくろ峠」

匂い立つような新緑の山々、薄峠を越した辺りから「町石(道標)」が見受けられるいつ頃刻まれた文字なのか、風雪に耐え昔時のままの小さな町石は幾人の旅人に安らぎと、安堵を与えたのだろうか、大滝の集落跡を過ぎ水ガ峰へ向かう途中、イキナリ舗装道路に出た「高野竜神スカイライン」、無味乾燥のアスファルトに別れを告げ、再びの「古道」に踏み込んだ、目指すは「水ケ峰」昼なお暗い杉木立、日常生活では決して味わえないで有ろう幻想的な世界がそこに有った

しかし感傷に浸る間もなく、「タイノ原線」の大規模林道に出た、スカイライン同様至る所で山肌が無惨な姿を晒している、「熊野古道」は慟哭していた、古代の熊野は奈良、京都の都から遠く離れた最果ての異境で有った、我が国の山岳宗教の発祥は、本宮、新宮、那智の熊野三山とされる。平安時代には宗教的聖地とされ、熊野信仰は、「お伊勢参り」をも凌駕する爆発的とも云える信仰の道で有った、その「古道」が僅か半世紀の間に変わり果てていた 慟哭していた。

しかし、再びの古道は、太古の、そのままの姿で私達を優しく迎えて呉れた、桧又辻、今西辻、平辻、萌えいずる新緑の香り、苔生したケモノ道、急坂、眺望、、歓声、ヒ−ヒ−ハ−ハ−フ−フ−、しかしまあ、賑やかな山行では有る。掛け合い漫才の応酬、爆笑、唄が出る、踊りが出る、民謡が出る、何せ賑やかなメンバ−だ、、

だが、当然の事乍ら、単なる物見遊山のお遊びでは無い事は論を待たない。リ−ダ−の田中さんは、心血を注いで、何年も掛けて綿密な情報を収集していた。多くの先輩同様、彼は「地図を読む、読み切る」 サブの斉藤さんは、と云えば田中先輩に勝るとも劣らない位「地図を読み切る」有る部分に於いては田中さん以上に細部を調査していた、上原さんの背中には優しさと、心使いと、無事故の祈りの一杯詰まったザックが有った、私の「ソレ」より重たかった、暖かい、そして賢明な女性達4人の配慮はパ−テイを和ませて居た。

幾度となく地図を広げ、磁石を当て真剣にコ−スを確認する田中リ−ダ−と斉藤さん、<どこら辺りで昼飯にありつけるのか、宿でビ−ルが呑めるのは大体、何時頃か、>それしか頭に無い私は、ひたすら沈黙するしか無かった。奇しくも、この原稿を書き始めた時、4月の「大和飛鳥」のリ−ダ−福原さんから山行報告が届いた、彼も文中、云ってる「地図は見るのでは無い、読むんだ」と。

2日目の民宿の夕食も、賑やかこの上ない宴と相成った、飲むほどに酔うほどに、ビ−ルをガバスカ呑むのは私と斉藤氏であるが、これには深刻な理由が有った、「脱藩の道」で寝食を共にして以来、斉藤サンは宿命のライバルと成った、地鳴りの如き大イビキの壮絶な応酬で有る。酔って早く寝込んだ方の勝ちと云う、単純にして悲惨なサバイバルだ、情け無用、遠慮容赦の無い壮絶な対決で有る、、今回は、やや斉藤さんに軍配が上がったか、

僅か七所帯が身を寄せ合っての集落、ただ一軒の民宿「津田」を出た途端の急坂だった、たらふく朝飯を喰った私は、スタ−トと同時にヨレヨレに成り果てていた、稜線に近い所に「萱小屋」が有った、その昔、旅籠だったらしいが、往事の見る陰も無くモノの哀れを感じさせた、山腹を絡みながら夏虫山の東斜面の美しい古道を進む、樹林と眺望と歓声と爆笑と、唄と、談笑と、目指すは「伯母子峠」

しかし、それにしても、この伯母子峠への山道、長い、ようやく着いた「伯母子峠」にザックを並べ全員山頂へと向かった、標高 1344M,決して高いとは云えないが、そのピ−クからの大パノラマは素晴らしい眺望だった、北に荒神岳、水ガ峰、西に牛首ノ峰、口千丈から護摩栴檀山への縦走路、南に鉾尖岳、崖又山、その遙か彼方には果無(はてなし)の山々、東はと見れば八経ガ岳、釈迦ガ岳、笠捨山、玉置山、いわゆる大峰連山である、この山々の名前、どうして、、こうまでにロマン溢るる名前なのか、リ−ダ−の田中さんは興奮していた。

40数年前、若かりし頃、彼は電源開発の仕事に携わり、この広大な紀伊半島の大地を駆けめぐったと云う、昨今の「古道ブ−ム」で熊野の一帯がスポットライトを浴びた時、彼は決断したと云う、「熊野古道を踏破したい」と、彼はその壮大な夢を己の足で実現しつつある、過去、別のル−トの走破を幾度も実現させた。田中安雄さん、75歳、何と幸せな男であろうか、何と良い人生だろうか、

過去、熊野古道の別ル−トを走破してるメンバ−の話しを聞けば、今回のル−トはソレに比べれば見所の少ない、見方に依れば何でも無いコ−スかも知れない、しかしメンバーは異口同音に言い切った、「これが本来の熊野古道かも知れない」。峠より十津川村への下りは様相が一変した、関西の山でも有数の原生林を擁する伯母子岳は自然の優しさと厳しさを垣間見せた、至る所の崖崩れ山崩れ、やたらめったら長かった、斉藤さんが又もポツンと云った「ワタさん、伯母子峠の歴史知ってるか?」、、呑気な私は予備知識を持って居なかった、斉藤さんから聞いた話に私は愕然とした。

明治22年、十津川村を襲った大水害で壊滅状態に成った十津川村の村民600所帯2.600人が村を捨て国策に従って北海道へ移住した、この伯母子峠を越えて神戸から船で北へ向かったと云う、明治時代である、山の装備どころか、着の身着のままだったで有ろうと云う、幼子や老人も居ただろう、病人も居ただろう、妊婦も、障害者も、食事は?寝具は?家財道具は?路銀は?先祖より営々として受け継ぎ、守り続けし「モノ」は????そして己自身の人生は????

「新十津川物語」< この物語は、明治22年8月、奈良県吉野郡十津川郷を襲った集中豪雨から始まる吉野・紀伊山系の山ひだ深く、降り始めた雨は三日二夜。 天地の闇は、うわさに聞く地中の暗に変わらず、間断なく桶の水をぶ ちまけるかの如く、時にはまた、千本の細引きが山々、谷々にたれこめ るかの如く降りつづき、やがて大崩落を引き起こした。人は、山津波、山抜け、山潮等々とよんだ。縦横50間を超える大崩れ1,080、以下の山崩れ7,500。死者168人。こうして 600家族 2,600人は、はるばると北海道をめざす苦難の旅に出る>著者 川村たかし。 『全十巻 78年から88年にかけて偕成社から出版された。858人の人物が登場する大河小説です。 産経児童出版文化賞大賞、第29回日本児童文学者協会賞を受賞。』

十津川村、日本で一番広い村、8人全員は寡黙に成った、皆、同じ事を考えていた、貧しさとは、かくも惨いのか、南米移住も 数年前、NHKで放映され全国に感動の嵐を巻き起こした「大地の子」の満蒙開拓団も、「大地の子」のワンシ−ンの如く弱き者は見捨てられたのか?泣く泣く見捨てざるを得なかったのか!私は5年前を思い出した、福原さんに誘われ2度目の穂高へ行った、天野さん(故人)桑田さん(脱会)そして上原さん、、福原さん以外は初対面の山行だった、帰路も福原さんと、二人きりだった。「ワタさん良い機会だ何処だ、行きたい所は?」<野麦峠>「野麦峠??何故?」<何でも良い、行きたいんじゃ!わしゃ、野麦峠へ行きたい!>「解った行こう」
女工哀史の歴史の野麦峠、無縁仏の林立する地蔵群を前に二人共、寡黙になった、明治大正、昭和初期の農村の貧しさの象徴を前に、その悲哀を噛み締めた。

最終日の朝、世話になった「民宿たまや」の前で村営バスを待つひととき、眼前に雄大な山塊が横たわっていた、「三浦峠」来年は此処からのスタ−トに成る、「右手の稜線は遠いから、左の稜線の下った付近が三浦峠なんかな?」誰かが呑気に決め込んだ、つられて皆も、そう思いこんでいた、「たまや」の主人が事も無げに言った。「アノ一番高い頂上付近が三浦峠だ」

斉藤さんは無言のまま山塊を睨んで居た、メンバーの何人かの眼は「点」に成っていた、私は目眩を起こしそうになった。

田中さんはと言えば、、例に依って目を細め穏やかな表情で遙か彼方を見据えて居るようだった、全員が山塊を見つめた、来年、此処からスタ−トする。三浦峠を越えて十津川村を進む、やがて果無山脈、はてなし山脈、一体誰が、いつの時代に、こんなロマンチックな命名したんだろう、連綿と続く彼方に最終目的地の「本宮」が待っている、来年行く、必ず行く!この素晴らしき、そして愛すべき仲間達と共に。



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