熊野古道・2・五百瀬(いもせ)〜本宮


あれから丁度一年、十津川村は私たちを穏やかに待っていてくれた。五百瀬の集落も、 民宿「たまや」も私達を暖かく迎えてくれた。全員、遥か三浦峠を凝視した。「来年は、あの峠を越えて、果無山脈(はてなし)を越え本宮へ行く。」 仲間たちと 一緒に行く、あれから一年経った。

しかし、残念な事があった。リーダーの田中さんが出発直前で体調を崩し参加を断念された、メンバーにとって、これほどのショックは 無かった、一時は流石に動揺が走った、出発の朝、福山駅に見送りに来てくれた田中さんは「元気で気をつけて」と送る言葉を掛けてくれたが、「行ってきます」の一言しか云えなかった、思えば田中さんのお蔭である。熊野古道の素晴らしさや 長年、漠然と憧れていた「坂本竜馬脱藩の道」の踏破、そして素晴らしい仲間との出逢 い、私にとっての熊野古道小辺路は、本宮、新宮、那智の熊野三山に代表される山岳宗教の発祥とは別な側面での興味が有った。 幕末維新の激動期、熊野古道小辺路のその広大な大地は重要な舞台に成っている。 特に十津川村は、「維新胎動の地」であった。

日本で一番長い谷瀬の吊り橋を渡った所にある「黒木御所跡」は「天誅組」が崩壊直前、幕軍に対し最後の決戦を試みた場である。 近くの県道脇に「維新胎動の地」の石碑もあった、吉野から十津川一帯の若者が決起した天誅組の中心者は「吉村寅太郎」坂本竜馬と同じ土佐の志士で竜馬の脱藩より、20日前に脱藩し、尊皇攘夷の代表的な人物の一人だった、3年前 「脱藩の道踏破」の途中、高知県梼原町の近く東津野村に屹立と立つ彼の威風堂々としたブロンズ像を見た時も、彼の疾風の如き27年の人生に想いを馳せた。

去年、野迫川村から伯母子峠を超える時に想像していた<十津川村>明治22年の大水害で600所帯2600人が捨てた村、 日本で一番広い村、歴史の重要な転換期には必ずと云っていいほど登場する「十津川郷の男達」、 一体どんな村なんだろう、司馬遼太郎は、十津川の語源について昔は「遠つ川」と呼ばれていたと云う

しかし、 私の頭の中で想像していた「十津川村」は何処にも無かった、不思議な不思議な村だった。標高1000Mを超す「山」を100座以上有し、峻厳な山間に平地は無く、至る所に吊り橋、野猿(川を渡る乗り> 物)がある。7つの区、55の大字200の小字に、5000人の営みがあった。五百瀬は7つの区の一つだった。

民宿 「たまや」の主人が私達を今は廃道になっている熊野古道小辺道跡へ案内してくれた。典型的な過疎の見本のような集落である。「南朝の史跡」「維新胎動」の名残と共に「平家物語」も舞台になっている、平椎盛亡命説は諸々方々に 伝わっているが、五百瀬の維盛亡命説の一つの根拠は、南望山宝蔵寺の過去帳[かこちょう]に維盛の戒名が記され、墓と言われる祠も現存していた、幾多の歴史を見つめて来た五百瀬はひっそりっとして、そこには昭和30年代以前の日本が佇んでいた。

翌朝、「たまや」の主人に見送られ神納川の吊り橋を渡り、三浦峠への山行が始まった。あいも変わらず賑やかな山行だ。去年のメンバーと少し顔ぶれは替わったが、賑やかさでは去 年とは勝るとも劣らない陣容だ。三浦峠への登りは変化に富んでいた。この十津川の山々は、国内に群生するあらゆる植物、草木の宝庫でもある。 また思わぬところに巨杉の群生地があった。いたる所で女性陣の歓声が挙がる、、「**の花だ!」「***が咲いてる!」花 には全く興味のない私にはサッパリ解らない。 花の名で判別が付くのは「桜」と「バラ」くらい、木もそうだ「松」と「竹」は判 るが「杉」と「ヒノキ」さえ間違える。 カメラマニアの斎藤さんは一眼レフで慎重に撮っていた。私は、自慢のデジカメの シャッターを押すだけ。背景もレイアウトも関係無い、ひたすらシャッター押すだけ。

二十丁石に来た.丁石と呼ばれる石の道しるべが距離を刻んでいる。地図や磁石の無い頃の旅人に取って唯一頼りになる道標だったか、 水場も三十丁石まで来ると適当な場所に有った。素晴らしい山路である。優しさと古道の風情に満ちた山路は、汗を滴らせて登る我々の表情すら和ませた。斎藤さんは相変わらず一眼レフを離さない。

三浦峠に着いた、待ち焦がれた弁当だ。私はこの時間帯が一番好きだ。昼食後の三浦峠は撮影会場に変わった、 モデルには事欠かない、何しろ福山山岳会屈指の綺麗ドコロが4人も揃っている。下りの山路も素晴らしい、、 賑やかな山行の中で斎藤さんが時々地図と時計を気にしていた。途中より小辺路新道へのコースを取ったので、当初、計画した時間より 余計に掛っているようだ。峠を下りて西中から蕨尾口の今夜の宿舎まで、路線バス を利用する、克明にスケジュールを組んだ斎藤さんにとって便数の少ない過疎の路線バスの時間 に遅れる事は出来ない。

バスで十津川銀座と呼ばれる宿の集落が今日の目的地、蕨尾口に着いた。時間の余裕があるので熊野本宮大社の奥宮といわれる 玉置神社へ参拝に行ったが途中、運転手さんが展望のいい場所で車を停めた。そこからの展望は、 まさに「1000M以上の山を100座以上有する十津川村」の大パノラマが拡がっていた。NHKの大河ドラマや 十津川村を紹介する代表的な画像映像は二つあるが、その一つが「この場所」だった。 連綿と続く山並みの何処までが十津川なのか、、、運転手さんがサラリと言った、「全てです」「私は十津川で生まれ育ったが、この年に成っても十津川で行っていない所が多 い」と云う、運転手を職業とする彼の言葉は十津川の広さを雄弁に物語っていた。

玉置山山頂は景観もさる事乍ら、女性達は山頂一杯に咲き乱れる「しゃくなげ」に歓声を挙げたよくまあ、歓声を挙げるグループでは有る、宿の屋上の露天風呂から展望する翡翠色の十津川、絵具の原色の緑を溶かし込んだような十津川の山、風呂にまでデジカメを 持ち込んだ私に斎藤さんは呆れていたが、顔は嬉しそうである。それもそのはず、まもなくビールに有り付ける!その夜のイビキの応酬は、圧倒的な私の大勝利と相成った。

翌日は、いよいよ熊野の三大難路といわれた果無越えである。奈良、京都が日本の首都であった時代に命名された「果無山脈(はてなし)」。 江戸期には「終無」とも書いたという。まさに峠を越える覚悟は壮絶であったろう。都を発ち、<高野山大門から、大滝を経て奈良、和歌山県境の水ヶ峰を越え、吉野野迫川大股の出、伯母子峠を通り十津川村五百瀬、三浦峠をすぎ、重里から果無山脈を越えて和歌山県側の切畑、八鬼(木)尾、そして三軒茶屋で西からの中辺路の合流し、熊野本宮の通じている。(略) 果無の名は、連山つらなり嶺(みね)遠くその涯(はて)を知らずというところからでたのであろう。>(神坂次郎著) 「果無」、この語感 に憧れてきた数年であったが、わが仲間も昨年の パート1以来、高野山からこの山路を辿り、明日はいよいよそのクライマックスを迎 えるのである。

去年、五百瀬の民宿「たまや」から三浦峠を前にし、この向こうに「果無山脈」がある、と感慨に耽ったのを想い出し、決意をあらたにした ものであった。全ての行動は事前の計画に基ずくもの、思えば田中さんが心血を注ぎ斎藤さんがサポートしたもので有った。古よりのルート、果無山脈へ足を踏み入れた。柳本橋を渡り果無峠越 えの古道に入る。石畳が敷かれ往時を偲ばせる。 しばらく登ると「果無集落」の尾根筋にでる。どれくらい上ったか、「果無の集落」 が有った、 その営みは、山の背を開墾した急斜面の畑や僅かな平地を開拓した小さな田んぼである、

斎藤さんが走り出した、先に行った。高い場所に立ってカメラを構えている。そこからの展望は、、私の目から見れば、とりたてて何でも無いようにしか見えない。かし、何処かで見た風景だ、何処で見たか、思い出した!! JR福山駅の構内 に「観光案内、十津川村」の ポスターになっていた。後日、女性たちはJRに交渉し、そのポスターを自宅に飾っ ている。

果無集落の家の軒先を通り抜け、まず西国三十三ヶ寺観音石像の三十番に出くわす。この観音石像は十津川の第三十三番から 果無峠の第十七番を経て八木尾の第一番まで順次奉られている。そこから少し先の山路に、「右 くまのみち左やまみち」の石の道標と地蔵菩薩坐像がまつられている。いよいよ本格的な果無越えの山路となる

素晴らしいの一語に尽きる山道だ。 まさしく熊野古道だった。何度歓声を挙げたか、、何回シャッターを押したか、、俗に「聞くと見るとで大違い」って言葉がある。代表的なのは「札幌の時計台」「高知のはりまや橋」「沖縄の朱礼の門」、いわゆる、、 日本 三大ガックリ名物がある。

しかし、果無越えの十津川側の山道は、まさしく熊野古道そのものであった。期待にたがわぬ素晴らしい山路だ、 所々、広さにして三〜四畳半程度の平地がある、木は生い茂ってるが「出店跡」の標識があった。元山口茶屋跡である。多くの修験者や旅人のオアシスだった筈だ。十津川沿いに今の道路ができるまでは、この小辺路は難路とはいえ重要な生活路であった。さきに述べた大水害の際の集団移住をはじめ、数多くの人とそれにまつわる数多くのドラマが往還した歴史の山路もである、文字通り(歴史の道)であった。途中の休憩場では野兎が我々を歓迎してくれる、女性陣の悲鳴にも似た歓声が此処でも挙がった。

思いがけない場所に田んぼの跡もある、信じられないような所にも開墾の跡が点在している、今は草茫々の田んぼ跡を見た私は愕然とした。中途半端に歴史が好きな私に取って漠然とした疑問が有った。何故?十津川郷の男なのか?壬生の乱、保元の乱、南北朝の乱、大阪冬の陣、そして幕末・敬愛する坂本竜馬が盟友、中岡慎太郎と 京都、近江屋で暗殺されたのも、訪れた刺客の「十津川郷の者です」 の言葉に下僕の藤吉が騙され、警戒を解き戸を開けた。歴史の転換期の重要な舞台に必ずと云って良いほど登場する「十津川郷の男」。古来より明治維新まで、十津川村は天領であった。ご赦免地である、年貢米が免除される恩恵に浴していた。山又山、 峻厳な山の斜面が駆け下ったところは川、要するに平地が無い。平地が無いから稲作は不可能である筈だった。しかし彼らは営々として切り開いた。

先祖より受け継がれたであろう血と汗と涙の結晶とも云える田畑の跡が眼前に有った。家族が生きて行く為の米は作っていた。 私たちが歩いている、まさにこの場所だったか、十津川の男達は、こ の特権を奪われたく無かったのか、妻子眷属をコレ以上の困窮に晒す事は出来なかったのか、生きるか死ぬか、我が命を賭して歴史の転換期の表舞台に躍り出たのはその為だったか。

とんと十津川御赦免どころ年貢要らずの造りどり」 十津川村に関する感慨は斎藤さんとの種々の会話の中で確信に変わった。果無峠に着いた。開墾地の跡から間もなく観音堂に着く。観音堂よりの登りは整然と林立する杉木立 の中の急な登りである。この急登をのぼるだけでも果無越えの実感が湧く。峠は果無の背稜を古道が横切り、左右に木立の中を稜線が くっきり走っている。その僅かな平坦地が峠である。 従って眺望はきかない。曇り空の下、風の通りみちとして薄ら寒い風が吹き抜ける。地の涯て、山の涯、の感慨。 石造半壊の宝篋印塔と第十七番観音石像が寒風に晒されている。観音石像に合掌する女性陣、流石に歓声は出ない。しかし、静けさも束の間、それから恒例のにぎやかな、自称宝塚歌劇ラインダンスの記念撮影。

誰からとも無く「田中さんに報告しよう」の声が出た、幸い携帯電話が繋がった、交代で受話器を握るメンバーの目が潤んでいる。 女性達の声が上ずっている、震えている。又も斎藤さんが時計を気にしはじめている。「本宮の社務所が何時まで 開いてるか」社務所で田中さんの快癒のお守りを買おう、、玉置神社で田中さんの お土産に買ったお守りは上原さんが大事に持っていた。 因みに、田中さんへのお土産は、快癒祈願と熊野古道完歩記念として熊野本宮大社、熊野速玉大社(新宮)、熊野那智大社(那智勝浦)、玉置神社(十津川)のお守りとしていたのである。

果無峠の下りは和歌山県側になるがこの下りは長かった、、、下っても下っても延々と続いた。第十四番観音石像をすぎると、自然石の刻まれた二十丁石が無造作に 置かれていた。坂は更に急になり、やっと熊野川や 本宮方面が見えかくれし始めた。やがて第九番観音石像までくるとすぐ下手が七色 辻。その下が十津川村七色集落である。ここでわが十津川村とはいよいよお別れで、これから和歌山県本宮町に入った。

八木尾への下りはまた急坂でほうほうの体で 八木尾のバス停に着いたのである。果無を越えた!! そこから振りかえった果無の稜線は荘厳さの中に信じられないような彼方から我々を睥睨していた。

最終目的の熊野本宮神社は疲れ切った私達を暖かく迎え入れて呉れた。思えば2年がかりの長丁場、「小辺路の踏破」だった、そのあと大斎原(おおゆのはら)に参拝。前述の明治22年、十津川村を壊滅させた大水害で千年以上信仰を集めてきた社殿を跡形も無く流出された所である。その後、社殿は現在の本宮神社として再建されたのである。

一年前、高野山から始まって、長い長い道のりだった、この原稿を書きながらパソコンに収めている画像を何回も何回も スライドさせた、小辺路の踏破、両方合わせて、474枚の画像は素晴らしい「熊野古道」を再現させて呉れる。田中さんに替わり、リーダーを勤めた斎藤さんと二人で路傍に座り込んだ、二人は疲れ果てていた。女性陣は先に送り、ピストンで来るタクシーを待つ間、缶ビール呑みながら、田中さんに最終報告をした、受話器の向こうで、田中さんの安堵の声が優しく弾んでいた。

急遽、リーダーを見事に勤めた斎藤さん、万感胸に迫ったか、、電話を代わろうとしない、穏やかな目が潤んでいた、充実感溢るる眼差しで有った。彼の残された仕事は、アト二つ、今夜の宿、川湯温泉でビールをガバスカ呑む事と、連敗続きだった私とのイビキ合戦で一発逆転を狙う事か、 私以上に彼は「十津川村」「熊野古道」に思いを注いでいる、「ワタさん、来年は中辺路を 歩こうか」と言い出した。「オイオイ斎藤さん、冗談ジャーない、前に約束したろう、鯖街道、あれをやろう、」「いいやワタさん、来年は中辺路じゃー」


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