果無峠 (はてなし峠)田中安雄さんを悼む 
         
果無峠は熊野古道の小辺路(こへち)ルートの果無山脈に位置する。熊野古道小辺路は数多い熊野古道のルートの中でも大峯奥駆道に次いで厳しいルートで、
高野山から熊野本宮までの約
70kの行程は標高1000m級の峠が3つ有り、数軒しか無い集落から一旦山道に入ると次の集落までは何時間もかかる。
熊野古道は他に「中辺路」「大雲取・小雲取越え」「大辺路」「伊勢路」等がある。

紀伊半島全域に亘る熊野街道の中で熊野古道とは熊野三山(熊野本宮・熊野速玉神社・熊野那智大社)へ参詣する街道の総称でありコースは30本以上ある。

2004年に熊野古道を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録され俄かに脚光を浴びているが
世界遺産に登録される
4年前、福山山岳会で「熊野古道」を徹底的に研究され実行した大先輩が居られた。
2年ほど前に退会された「田中安雄さん」である。
「熊野古道小辺路を完結したら我が山行を完結しても悔いは無い」とまで云われていた。

熊野古道に心血を注がれた田中さんを陰で齋藤楠輔さんが懸命に支えた。そして遂に20005月、L・田中安雄さん SL・齋藤楠輔さんのコンビで
「熊野古道小辺路・前半」が実施され
8 名が参加、不肖、私も加えて頂いた。参加者の一人が数点の短歌を創った。
その一つに、「
リーダーの 後姿の頼もしさ 意気込み感じるサンパツの跡

最終日の朝、五百瀬の宿から眼前の三浦峠を凝視しながら、田中さんは「来年は三浦峠を越え十津川村を過ぎ、果無峠を越える。果無山脈を越えたら熊野本宮は近い」と呟いておられた。
しかし翌年の「小辺路・後半」の出発直前に体調を崩された田中さんは断念され、出発当日は、福山駅で我々を見送ってくれた。断腸の想いであったろうと思う。

「果無峠」に着いてから携帯電話で田中さんに連絡した。参加者は交互に電話で田中さんに報告したが、女性陣は涙声で声は震え涙ぐんでいた。
下山後、熊野本宮前のタバコ屋の前で女性陣をタクシーで見送った後、ピストンでタクシーが戻るまでの間、齋藤さんと路傍に座り込み、缶ビールで乾杯した。
再び携帯電話で田中さんに連絡した。電話で田中さんに報告する齋藤さんの声も震え、眼が潤んでいた。私は只、ひたすらビールを呑んでいた。

その大先輩の「田中安雄さん」が亡くなられた。63日、ひっそりと息を引き取られた。85年の生涯だった。葬儀に参列できなかったので数日後、齋藤楠輔氏・上原寿美子氏・
横手洋子氏と共に弔問させて頂いた。「坂本龍馬脱藩の道」「熊野古道」・・・・
田中さんに纏わる思い出は短期間ではあるが貴重だ。

私事で恐縮だが 1991年に入会したものの例会山行には参加せず名前だけの会員だった。一緒に入会した仲間4人は、とっくに退会し私も退会を考えていた。
退会を決意した最後の会報の「坂本龍馬脱藩の道研究」が眼に入り、退会の考えを撤回し現在に至っている。

その時のリーダーが田中さん、サブリーダーが齋藤さんだった。

田中さんと共に歩いた「坂本龍馬脱藩の道」の画像が63枚。「熊野古道小辺路前半」の画像が176枚、私のパソコンに入っている。
スライドで見ると、つい先日の出来事の如く鮮やかに蘇る。何度見ても懐かしい。この原稿を書きながら思った。

来年の春頃、私の
体調が少しでも戻り、可能ならば田中さんの遺影と共に果無峠を越えたいと思う。

田中安雄さん 本当に有難うございました。安らかに眠って下さい。

20005月 熊野古道小辺路(伯母子岳山頂にて)後列左から二番目が田中さん



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