十津川村         

紀伊半島を襲った台風12号に因る大被害が連日報道されている。亡くなられた方々に心からご冥福をお祈りすると共に行方不明者の一日でも早い発見をお祈りさせて頂くしか私達には出来ない。TVの画面を見ていると半年前の東日本大地震の被害と重複する瓦礫の山と大量の土砂である。その土砂の中に家族や友人の遺体が、と思うだけで当事者でない私達も辛く悲しい思いで一杯になる。

このような状況の時に、単に趣味の世界の熊野古道に想いを馳せるのは不謹慎であろうか?マスコミは連日「那智勝浦・大塔村・十津川村・五条」を中心に人的被害、建造物、農産物被害の重大な現状を報道している。この惨状が明らかになった次の報道は、すこしずつ紀伊半島全体の事、そのなかには当然、熊野古道の事が明らかになるのでは、と思っていた矢先、今朝(9/13)の朝日新聞に「熊野古道で大崩落・復旧のめど立たず」の記事。

数ある熊野古道の中でも「小辺路」と共に代表的なルートの「中辺路」の一部である。今年4月に福山山岳会の例会山行で実施したコースは「中辺路」の半分、つまり「那智」から「本宮」までのルートだった。参加者17名は大いに熊野古道を満喫した。来年は残り半分、「紀伊田辺」から「本宮」までを実施するか、「十津川村・果無峠」を越え本宮に至る<小辺路>の半分を実施するか・・どちらを選択するか贅沢な悩みを抱えていた。

両方とも駄目なら伊勢路は??ここも何箇所か崩落しているとか、この後、調査が進むにつれ全貌は明らかになろうが、私たちが元気な内に熊野古道へはもう行けないのか?前述の4月の例会山行の10日後、妻と友人の大野氏(山岳会OB)ご夫妻と4人で熊野古道の一端を味わって貰う為、湯峰温泉へ一泊旅行に車で出かけた。五条から十津川村に入り本宮を目指すが途中の国道168号線では大規模な工事が延々と為されていた。

バスでは出来なかったが何度も車を止めた。何度も溜息が出た。道路建設であんな大規模な工事は始めて見た。秘境の真っ只中に片道二車線の広い道が連なっている。橋脚の高さ、大きさ、その数、全てが完成すれば紀伊半島全体が大きく変わる筈であったが、今回の大災害である、TVで見る工事中の国道168号線の惨状は信じ難く、目を覆いたくなる。

明治22年8月、十津川村は未曾有の集中豪雨に襲われた。当時の人々が「山津波」と呼んだ大崩落は大崩(縦横50間・約100m角)した場所が1080箇所、それ以外の崩落箇所は7500箇所、死者は168人を数えた。その後、村の600所帯2600人が北海道の原野へ移住し艱難辛苦の末、生活基盤を造り現在の新十津川町(北海道樺戸郡・空知のほぼ中央、石狩川沿いに位置する)を形成した。<参照・新十津川物語>。現在の人口は約7200人。

この時の豪雨で熊野本宮は流失し現在の場所に再建された。流失した場所が現在の「大斎原(おおゆのはら)」である。何度も訪れたが「天下一大鳥居」と称される高さ34m幅42mの鳥居の先に寂然として存在している。しかし今回この大斎原も冠水土砂被害に遭った。

十津川村。なんと不思議な村だろうか。日本で一番広い村、日本で一番長い生活道の吊り橋は彼の地の人々の生活を今も支え、日本で一番長い路線バスが走り(高速、夜行は除く、168k6時間30分)、標高1000mを越える山々が100座以上連なり、そして日本の歴史上、後醍醐天皇の時代から幕末維新の時代まで歴史の転換期の節目節目には必ずと云って良いほど躍り出た「十津川郷の男」。日本中の何処にもこんな不思議な村は無い。

今後、調査が進むにつれ被災箇所が明らかになっていくだろうが、見たくないし聞きたくもない。8年前に7人で、そして今年4月に17人と歩いた大雲取り小雲取りルートの越前峠、胴切り坂、小口、百間ぐら、無事でいて欲しい。牛馬童子は?そして果無峠(はてなしとうげ)は?皆、無事だろうか??心配でならない。十津川村が可哀相でならない。

十津川村の人達は北海道へ移住する時に幾つもの峠を越えたが、そのなかに「伯母子峠」がある。此処は「熊野古道・小辺路(高野山から本宮までの約70km)」のルート上だが、2000年5月、故・田中安男さんがリーダーをされて8人が参加した。不肖、私も加えて頂いた。よくぞまあ・・十津川村の人達2600人は、家族と家財道具、そして己が人生の全てを抱え、ここを越えたものだと驚嘆。画像は11年前、伯母子峠山頂(1334m)にて。
         (後列、左から二番目が故・田中安男さん)
追記

田中さんが今の紀伊半島の惨状を知ったら・・・どれほど嘆き悲しむだろうか・・・
一年後(2001年5月)「小辺路・後半」にも参加させて頂いた。十津川村縦断とも云える「三浦越え〜果無峠(はてなしとうげ)〜熊野本宮のルート」である。田中さんは若かりし頃、電源開発の仕事に携わり紀伊半島を駆け巡っておられたが特に「五条〜十津川」の地域に特別な愛着を持っておられ、中でも「果無峠」への想いは特別なものが有ると周囲の誰もが感じていた。

しかし出発直前、体調を崩されドクターストップが掛かった。出発当日、駅で我々を見送りに来られていた田中さんを私は正視出来なかった。「行ってきます」と云うのが精一杯だった。
参加者6人は果無峠から携帯で田中さんに報告したが皆、声が潤んでいた。
今は鬼籍に入られた田中さんだが、その時の無念さは如何ばかりであったろうか察するに余りある。 その時の夫の無念さを詠んだ奥さんの一句を紹介したい。

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